小学生の読解力が落ちていて〝ごんぎつね〟が読めない…らしい

 こんな記事を読んだ。 

『子どもたちの国語力が危ない 〝ごんぎつね〟が読めない衝撃』(大阪日日新聞)
石井光太氏による「ルポ誰が国語力を殺すのか」(文藝春秋)から書かれた記事である。
この記事では、著者の石井氏が東京都内の小学4年生の授業を見て生徒たちが「ごんぎつね」をとんでもない読み方(理解)をしていることに衝撃を受けたと書かれている。
その内容は、病気の母が亡くなり息子がその葬儀の準備で大きな鍋で何かを煮ている部分について教師が何を煮ているのかと質問したところ、生徒たちの中に「死んだ母親を鍋で消毒している」と答えるものが複数名いた。というものだった。
そして、それをこの記事では〝読解力低下〟の状況として報じていた(紹介していた)。

ほんとうにそうなのか?

生徒たちの中に「母親を鍋で消毒している」と答えたものが複数名いたことは本当だったと思うが、それを〝読解力〟の低下と言ってよいのだろうか?
その点に疑問を感じた。
(小学生の)国語で求める読解力がどのように定義されているのかは知らないが、
文章を正しく理解する(理解できる)ことが、〝読解力〟として求められていると思う。
そのためには、記述されている文章の順序や関連を正しく理解できること(①)や記述されている言葉の意味を正しく知っていること(②)が要求されると思う。
そのうえで、文章には表現されていないことを正しく推察できること(③)も含まれると思える。
では、記事にある「鍋で煮ているものは何か?」という問いに対する答えは、〝ごんぎつね〟の文章には記述されていないと思われる。とすれば、上記の①・②では答えは見つからない。③のパターンで答えることになる。
そうなると、息子が葬儀に来た客のために鍋で料理を作っているという記述がない限り、生徒は持っている知識で鍋で何をしているか推測するしかない。
葬儀の時に鍋で何かをしている。何をしているか?
そんな習慣は知らないし、家で葬儀などしないので見たこともない。
鍋でお湯を沸かしているとすると何のためか? 料理か? 何かの消毒か? …
小学4年生の知識で出た答えのひとつに 消毒のために鍋でお湯を沸かしていて、それは死んだ母親をきれいにするためと推察し、表現として「死んだ母親をお鍋(のお湯)で消毒する」となっても決しておかしいとまでは言えないのではないだろうか。
実際にこの記事には、別の生徒の答えとして「昔は墓がなかったので、死んだ人を燃やす代わりにお湯で煮て骨にしている」というものも紹介されている。
これも、〝ごんぎつね〟が現在の話ではないことを理解したうえで、持っている知識からひねり出した答えと言える。
それを、〝読解力がない(低下している)〟とか〝人間として持つべき感性・情緒を理解する力が欠如している〟と評価するのはおかしいのではないだろうか。

私だって知らないことは知らない。推察して答えるしかない

大人の私も知らないことは多い。
例えば、昨日あった部分月食でも「太陽と月の間に地球が割込みその陰で月の一部に光があたらくなって欠けたように見える」と説明できても、なぜ部分月食では月の色は白いままなのに会議月食では月は赤色に変色するのかは説明できない。
そのことについてのちゃんとした知識がないからである。
小学4年生が〝ごんぎつね〟の時代の葬儀の様子や習わしなどの知識を持っているだろうか。
多くの生徒はそのような歴史に関することは学んでいないだろう。大人でも知らない人のほうが多いのではないか。
では、鍋で死んだ母親を消毒するということについてはどうか。
さすがに大人にはこのような考えをする人はいないだろう。しかし、葬儀の参列者のためにふるまう料理を作るために鍋で何かを煮ていると答えられる大人は今の時代にどれくらいいるだろうか。
現在では、多くが葬儀は葬儀社で行うようになり、参列者への料理も仕出し弁当など業者に注文して用意してもらったものとなっている。
その知識の上では、鍋で何かをしているとすれば、お茶を(たくさん)沸かしているくらいの答えが精いっぱいかもしれない。

読解力の低下は深刻だけど…

読解力が低下していることは深刻な問題である。そのことに疑問はない。
むしろ、読解力の低下は小学生に限らず、中学生でも、高校生でも、そして大学生や社会人(大人)でさえも低下している(と言われている)。
ちゃんと理解しようとしない(できない)。長文を読む根気や内容を理解する力がなくなっている。このことは、小学生だけの問題ではない。
大人こそ、範を示すべき問題ではないかと思う。

補足

ここまで、大阪日日新聞の掲載された(ネットで見た)記事について感じた疑問を描いてきたが、一点補足しておきたい。
記事のもととなっている石井光太氏の「ルポ誰が国語力を殺すのか」(文藝春秋)に、上記のような疑問となるような記述が本当にあるかどうかは、確認していない。
おそらく、そのような記述はないと思う。
おそらく、大阪日日新聞の記事を書いたライターが、石井氏の著書を正確に読めなかったか記事にまとめるときに文字数の関係などから表現を省略したり言葉のつなぎ方を誤ったからではないかと思う。
少なくとも、私は、石井氏や大阪日日新聞のライターの考えが間違っているとは思っていない。単に、目にした記事について思ったことを書き綴ってみただけである。


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